選挙が終わったので

私は選挙期間中には特定の政党や候補者の主張に関わることをネット上に書かないことにしています。書き方や解釈によっては現行法で禁じられているネットでの選挙運動に該当する可能性があるからです*1。同様の理由でどこに投票するつもりか明示してきませんでしたが、選挙が終わったので、少しばかり書きます。

小選挙区自民党の候補に投票することはかなり前から確定していました。主な理由は自民が公約する積極的な財政・金融政策です。経済政策の効果の有無を事前に評価することは極めて難しいとは言え、景気低迷が続く昨今、積極的に動いてみる価値はあるのではないかと思っています。

比例区は結構迷いました。私としては、大言壮語的なマニフェスト依存の民主党的な政治を受け入れられないこと、発言や組織が二転三転するいわゆる第三極政党は信用できないこと等の理由で、選択肢は自民と公明に絞られますが、どちらにするかは投票日直前まで決められませんでした。最終的には、自民圧倒的優勢の報道を受け、比例は公明に投票しました*2公明党については、特定宗教団体を母体とする故に敬遠する人が多い一方*3、支持者層の多くが素朴な平和主義志向であることは特筆に値すると思っています。自公連立が続く限り、公明党には万一自民党が暴走した際のストッパーの役割を果たしてもらいたいものです(そんな機会はないことを望みますが)。

*1:実際には匿名無名な私の書いたものに目を付けられることはないと思いますが…

*2:結局は前回や前々回の衆院選と同じです

*3:だから公明党の選挙運動のあり方は幾分変えるべきではないかと思っていますが、今回のテーマとは別の話。機会があれば稿を改めて論じたいところ

最後に、将来的なちょっとした懸念を

原発利権」という言葉があります。現在は主に反原発派による原発へのネガティブキャンペーンに用いられる用語です。そもそも資本主義社会である以上、あらゆる経済活動に何らかの「利権」が存在するのは当然であり、利権を持つというだけで何かを否定する論法は嫌いです。実際、上で論じたとおり、現時点では原発を維持してそこから利益を得ようとする人々が存在するのは当然であり、今のところ特に問題視する必要は無いと考えます。

ただし、将来的に様々な代替エネルギーの開発・改善・低コスト化が進み、相対的な原発の発電コストが上がった場合はどうなるでしょうか。仮に市場システムが十分に働いていれば、発電業者や消費者は次々と代替エネルギーにシフトし、自動的に原発ゼロが実現します。実際、発送電分離電力自由化によるフェードアウト的な脱原発を公約に掲げる政党もあるようです。しかし、こと電力に関しては、市場を信頼するのは危険ではないかと私は思っています。経済学でよく知られている通り、規模の経済(簡単にいえば生産量が増大するほど単位生産量あたりの平均費用が低下すること)が存在する場合、市場システムはうまく働きません。原発のような大規模施設を要する発電には明らかに規模の経済性があります。規模の小さい風力のような発電には規模の経済が存在しないから大丈夫という意見もありますが、送電には規模の経済が厳然と存在し、たとえ組織的には発送電を分離したとしても供給システムとしては不可分なわけですから、そこから何らかの綻び(特定の発電業者の“優遇”や電力供給不安定など)が生じる不安を拭い去ることができません。脱原発の過程でそのような綻びが生じたときこそ、「利権」を問題視すべきだと思います。そんなわけで、代替エネルギー開発が進んだ暁にスムーズに原発ゼロを実現できるよう、国が強力な施策を講じることもいずれ必要になってくるでしょう。

脱原発への私見

まず大前提として、将来的に原発は絶対にゼロにすべきです。万一の大事故の際のリスクと放射性廃棄物の最終処分問題が余りにも大きいからです*1。ただし、その「将来」がいつ頃であるべきか、現時点では明確にできません。たとえばある政党の公約に「10年後に原発ゼロ」とありますが、到底支持できません。あくまでも私の直感ですが、少なくとも数十年後、もしかしたら数百年後にならないと、大多数の日本国民が原発ゼロを歓迎できる状況にはならないかも知れないと危惧しています。

原発をゼロにするために必要な代替エネルギーは、現時点で様々な問題を抱えています。

火力の割合を増やすのは短期的にはアリですが、エネルギー市場関連のリスクも増えますし、化石燃料の消費を増やすのは長期的に賢明とは思えません*2。風力や太陽光などの新エネルギーは、現時点で安定性やコスト等の問題があります。特に日本においては、地形的な理由で送電網構築コストが欧米に比べて高くなることも考えられます*3

つまり、性急に原発ゼロを断行すると、事故リスクが大幅に軽減する代わりに、電気料金大幅増などの負担が国民にのしかかる可能性が高いわけです。しかも、既に原発が存在する以上、放射性廃棄物問題から逃れることはできません。事故リスクを軽減する代わりに不安定やコスト大幅増を受け入れるのか、あるいは電力需要と生活水準を落として乗り切るのか*4、事故リスクをある程度抱えながら安定供給と可能な限りのコストコトロールを行っていくのか、これがまさに政治というものです。

そこで、原発事故リスクの評価が重要になってきます。一旦事故が起きた場合の被害は確かに大きい。しかし、大量の死傷者につながる事態になり難いことは経験済みです*5。また、昨年の大震災でも無事だった女川原発の例、福島第一と条件が類似していながらギリギリのところで大惨事を免れた福島第二原発の例を考えると、昨年3月の悲劇を教訓に更に安全対策を強化できれば、もし近い将来に東日本大震災クラスの自然災害が起こったとしても、原発事故を防げる可能性は高いと思っています。

以上より、私の原発問題への考え方は、将来的には原発ゼロにすべきだが、当面は安全対策強化を条件に原発存続を容認、必要ならば原発新設も可、というものになります。

なお、日本は活断層だらけで地震リスクが大きいため、そもそも原発を作ってはならないと主張する人もいるようです。確かに、日本国内はどんな場所でも大地震のリスクが存在すると言って良いでしょう*6。視点を変えれば、作るならどこに作っても地震リスクはさほど変わらないという論も成り立ちます。繰り返しになりますが、昨年の震災でも無事だった原発の存在を考えると、性急な脱原発に走るよりも、徹底的な安全対策と代替エネルギー開発への道筋構築を行った上で、当分は必要に応じて原発を維持する方が良いと考えます。

*1:この点に異議を唱える人はいないと思いたい……

*2:ただし、将来的にシェールガス採掘のコスト・環境負荷が軽減した暁には、もう少し火力への信頼を増しても良いかも知れません

*3:再生可能エネルギーは本命か 複雑な日本の送電網が抱える課題(日経BP)

*4:生活水準を高度成長前程度に落とすなどはさすがに非現実的過ぎるでしょう。また、昨年の計画停電のような事態は個人的に許容できませんし、経済界も許さないでしょう。

*5:繰り返しますが、だからといって福一原発事故の被害を軽視するつもりはありません

*6:本稿のテーマとは無関係ですが、1995年阪神淡路大震災は近畿圏に大地震が起こらないと楽観していた人が少なからず存在し、旧建築基準の建物が多数残存していたゆえに莫大な人的被害に至ったと考えています

福島第一原発事故への今更の個人的感想

日本史上最悪の原発事故になってしまったわけですが、想像していたほどに深刻ではなかったというのが正直な感想です。というのは、広島や長崎への原爆投下時のような急性の放射線障害患者が多数発生するのではないかと想像していたからです。事故後1年半以上経過した現時点で、明らかな被曝死者は出ていません。尤も、死者が出ていないとは言え、避難せざるを得ない人々や地域が未だに存在する状況の深刻さを軽視しません。また、現状では低線量被曝に関する議論が仮説の域を出ていないため、将来的に新たな被害が顕現化する可能性もゼロではないでしょう。とは言え、将来的にいくつかの原発を再稼動する際のリスク評価を行う上で、被曝急性障害による死者がいないという事実を無視できないと私は考えます。

久しぶりに書きます。

数年に亘って私の政治ブログ「社会派DS」を放置してきましたが、日本の原子力発電所を今後どうするのが良いと思うか、というテーマについて、できるだけ簡潔に記しておきたいと思います。今や重要な政治問題の一つですから。

福田 vs. 麻生・総裁選への所感

間もなく午後2時から開かれる自民党両院議員総会で、自民党の新総裁が決定します。

福田元官房長官と麻生幹事長。私が支持しているのは今のところ福田氏です。その理由は気が向いたらあとで書きます。ただ、首相就任後に支持し続けるかどうかは別問題。実際の政策運営を見ないことには最終的な評価はできません。

この2人が首相になったらどうなるか。まず、外交面ではさほど違いが出ないと思われます。2人の外交哲学には違いがあるように見えますが、現在の日本を取り巻く外交状況はかなり固定的で、動かしようがないと思われるからです。日米同盟堅持の上で、デリケートな隣人である中韓の機嫌を損ねないように気を配る安倍政権の方針は、どちらが首相になっても引き継がれることでしょう。

違いがあるとすれば内政面。テレビ出演時のインタビューを見る限り、2人とも小泉改革のいわゆる負の側面の修正を明言していますが、福田氏の方は小泉改革に概ね好意的で、麻生氏の方はいささか否定的、という違いが見て取れます。この辺の考え方の違いが内政の舵取りに影響を与える可能性は大いにあると思います。

なお、福田氏が国会議員票の多数を固めている状況に対し「派閥談合」と批判する人がいるようですが、私にはナンセンスな批判としか思えません。そもそも、自民党総裁内閣総理大臣は公選制ではないわけですし、密室での話し合いで首相が決まったとしても良い政治をしてくれればそれで良いではありませんか。

それに、福田氏が多くの派閥から支持を得たのにはそれなりの理由があります。仮に、担ぎ出されたのが福田氏ではなく同じ清和会の町村氏だったら、これほど議員支持が集まったかどうか、大いに疑問です。おそらく、周囲に不快感を与えにくい福田氏のキャラやリアリスティックな政治哲学が議員にウケているのでしょう。私が福田氏を好きな理由も、まさにこれです。

久間防衛相発言への所感

久間防衛相が講演で「原爆が落とされたのはしょうがないと思っている」と発言したことで、一部の人々から非難を浴びている件について。

久間防衛相の発言要旨 「原爆投下しょうがない」 (福井新聞)

日本が戦後、ドイツのように東西で仕切られなくて済んだのはソ連が(日本に)侵略しなかった点がある。当時、ソ連は参戦の準備をしていた。米国はソ連に参戦してほしくなかった。日本との戦争に勝つのは分かっているのに日本はしぶとい。しぶといとソ連が出てくる可能性がある。日本が負けると分かっているのにあえて原爆を広島と長崎に落とし、終戦になった。長崎に落とすことによって、ここまでやったら日本も降参するだろうと。そうすればソ連の参戦を止めることができると(原爆投下を)やった。幸いに北海道が占領されずに済んだが、間違うと北海道がソ連に取られてしまった。その当時の日本なら取られて何もする方法がない。長崎に落とされ悲惨な目に遭ったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で、しょうがないなと思っている。それに対して米国を恨むつもりはない。勝ち戦と分かっている時に原爆まで使う必要があったのかどうかという思いは今でもしているが、国際情勢、戦後の占領状態などからすると、そういうことも選択としてはあり得るのかなということも頭に入れながら考えなければいけない。

私も、先の大戦での原爆投下はある意味でしょうがなかったと思っています。その意味で久間氏には基本的に同感です。ただし、そう考える理由をソ連に求めるのは少々如何なものかと思います。原爆投下が無かったらソ連が北海道を占領したかどうか断言はできないと思いますし、原爆投下無しでも日本が降伏して戦争が終結していた可能性も僅かにあったと思われるからです。

私自身が原爆投下をしょうがないと思う理由は、次の2点です。

  1. 負け戦では、何をされても文句は言えない面がある。勝ち目の薄い対米戦争を開始・継続した当時の日本政府が悪い。
  2. 当時の世界は原爆の実地使用未経験で、威力を実感していた人が希少だった。

久間氏の真意も、当時の日本政府批判にあるのでしょう。であるならば、今回の発言は私にとってはほぼ無問題です。選挙前に誤解されやすい発言を行ったという意味では失言かも知れませんが、内容的には妥当だと思います。

なお、「久間発言核兵器廃絶と矛盾する」という批判が野党や被爆地の人々から挙がっているようですが、ハッキリ言って筋が通らぬ批判です。過去の被爆を“しょうがない”と評価することと、未来の核使用を厳重否定することは矛盾しません。