もしも私がマスコミの報道関係者だったら「イスラム国」呼称をどう考えるか(または呼称を変えたがらない理由の推測)

いわゆる「イスラム国」呼称問題について、これまで何度かTwitterで断片的に書いてきましたが、自分の意見を整理する意味でここにまとめます。

まずは問題点の整理から。今年になって、中東の地で2人の日本人が殺害された事件を機に、過激派組織ISに関する報道が増えていますが、日本の多くのマスメディアはこの組織(本記事では原則としてこれ以降単にISと表記します)を現時点で「イスラム国」と表記しています。一方、「イスラム国」を用いるマスメディアに対し、この呼称の使用を批判する意見が目立っています(特にネットで)。日本の一部のネット民のみならず、ムスリムの団体やトルコの報道関係者等も声明を出しています。

メディアで用いる呼称を変更すべきと考える人々(本記事ではこれ以降「批判派」と呼びます)の論拠は概ね次のA.〜D.のようになるでしょう。
A. イスラム教徒(ムスリム)が不快な感情を覚える。
B. イスラム教のイメージが損なわれる。また、日本でのムスリム差別が助長される。
C. 実際には主権国家ではない過激派組織を「国」と呼ぶべきではない。
D. 現在の日本政府は「ISIL」と呼んでいるのだから合わせれば良いのではないか。
このうち、D.については、メディアが政府に合わせる必要は無いということで終了とします。C.は呼称に「国」が含まれることへの批判ですが、朝日新聞などは国でないことを示すために括弧を付けていると主張していますし、TVの報道番組の多くは「過激派組織イスラム国」「自称イスラム国」のように枕詞を付けて非国家であることを表現しているようで、メディア側からの見解は表明されていると言えます。

より厄介なのは「イスラム」に関わるA.とB.です。これについてメディア側から明確なコメントは出ていないようです。微妙な問題を含むだけに出しにくいのかも知れません(この件は後述します)。

ここからは、「もし私が民放テレビ局の報道に関わる立場だったら、これらの批判(特にA.とB.)をどう捉えるか」というテーマで考えていきます。さしあたり民放としましたが、NHKでも大手新聞社でも論旨は変わりません。そのために、日本民間放送連盟 放送基準(以下、単に「放送基準」と記す)を参照します。関連しそうな条文を幾つか引用すると

(2) 個人・団体の名誉を傷つけるような取り扱いはしない。
(32) ニュースは市民の知る権利へ奉仕するものであり、事実に基づいて報道し、公正でなければならない。
(39) 信教の自由および各宗派の立場を尊重し、他宗・他派を中傷、ひぼうする言動は取り扱わない。
(44) わかりやすく適正な言葉と文字を用いるように努める。
となるでしょうか(他にもあるかも知れませんが)。

報道関係者の立場としては、まずは(32)の「事実に基づいて報道」を重視したいところ。「イスラム国」はISの自称を英訳した「Islamic State」の日本語訳なので、事実に最も即した呼称です。その他の呼称として、日本や米国の政府が用いる「ISIL」、米国の一部メディアを中心によく知られている「ISIS」、フランス政府やアラブ諸国等が用いる「ダーイシュ」が有名ですが、この3つはいずれも「組織が過去に自称していたが現在は用いない名称」という意味で不正確なので、これらに言い換えると「事実に基づいて報道」が犠牲になります。単に「IS」と略すのは正確ですがあまりにも短いために紛らわしく、基準(44)に引っかかりそうです。実際、原則的に「IS」を用いる毎日新聞も、記事本文中の初登場時だけは「イスラム国」を併用しています。要するに、英語の略称を用いるだけだと、どうしても正確性 or わかりやすさが損なわれるのです。因みに、報道機関の話ではありませんが、「ISIL」を公式に用いる外務省の海外安全pageでさえも、表題では日本語の「イスラム国」を併記せざるを得ないのが現状です。

以上をふまえて、批判A.とB.への対応を考えてみます。「イスラム国」の他に正確かつ伝わりやすい呼称が存在するならすぐにでも変更すれば良い(寧ろ変更すべき)ですが、既に述べた通り代替名称は問題点を抱えています(テロ組織がもっと長い“正式名称”を名乗ってくれていればそれを略すだけで済んだのですが……)。ゆえに、全ての基準を満足させる方針はおそらく存在しません。あとは優先順位の問題です。

ここで疑問が1つ。B.が主張するようなイスラムへの中傷や差別が実際に起きていると仮定して、それは本当に呼称のせいでしょうか? ISがイスラム系過激派であることは昨年から周知の事実です。仮に別の呼称が使われていたとしても、「イスラム過激派の思想=イスラム教」的な誤解や偏見を持つ人が、今年の事件を引き金に差別的な言動を行うに至った可能性はあるでしょう。つまり、呼称のせいで中傷や差別が増えたか否か、客観的に検証するのは難しそうです。

では、批判A.はどうでしょうか。「人の嫌がることはするな」という主張は一見妥当性を感じるかも知れませんが、複数の利害が対立する場ではそうとは限りません。たとえば「電車内で乳幼児がうるさいのは迷惑だから同じ車両に乗せるな」という主張は通らないでしょう。公共交通機関は全ての人が乗れるのが原則だからです。件の主張への賛同が圧倒的多数派なら通用するかも知れませんが、現実はそうではありません。話を呼称問題に戻すと、A.の「不快だから」だけでは、基準(32)の「事実に基づいて報道」原則を覆すには力不足と思われます。日本社会ではムスリムは多数派ではありませんし、社会的影響力も大きくはありません。

批判A.やB.に対応しようとすると、どうしても利害対立や検証可能性の問題にぶつかってしまいそう。メディア側がコメントを出したがらない理由はこんなところではないかと推測します。


以上より、日本の多くのマスメディアが「イスラム国」にこだわる理由と思われるものをまとめてみます。
1.「イスラム国」は正確かつ日本人に最も伝わりやすい呼称であり、適切な代替案もあまり無い。
2.批判派の意見は「事実に基づいて報道」原則を覆すには客観性が足りない面がある。
3.そして何より、この呼称で傷付くとされる層が日本では少数派である。


ところで、先程「呼称のせいで差別が増えるか否かは検証困難」と書きましたが、だとしても差別悪化を予防する意味で、呼称を無難なものに変更しておくのは1つの見識でしょう。その場合、正確性をさほど損なわない代替案の1つとしては(既にネットで指摘されているところですが)「自称IS」が考えられます。ISは正確な略称ですし、「自称」を付けることで紛らわしさも軽減されます。実際には「イスラム」でも「国」でもないという意図も伝わりそうです。同趣旨の代替案としては「過激派IS」や「過激組織IS」も考えられます。実際、昨夜NHK今後ISの呼称を「過激派組織IS」とすることを発表しました。これ自体は無難かつ適切な決断だと思います。ただし、「過激派組織IS」単独で用いるわけではなく、記事本文内の初出現箇所では組織自称名の英訳である「イスラミックステート」を併記する方針になっています。これは私の感覚では「イスラム国」と書くのに等しいのですが、英語ならば「イスラム」色が薄れると感じる人は多いのでしょうか? いずれにしても、報道機関が正式名称を容易には外せないことが見て取れます。


とは言え、正確性と分かりやすさにこだわるマスメディアの報道関係者の方々(←皮肉ではありません)の気持ちはよく分かるので、私は呼称を変えないという理由ではメディアを批判しないことにしています。


この記事の本題は以上です。これ以降は蛇足気味です。批判派の意見の中で、過去のメディア呼称変更例と比較しているものを時々見かけます。過去に変更したんだから今回も変えればいいだろう、という趣旨でしょうが、その中には例えが不適切と感じられるものがあります。幾つかとりあげてみます。

かつて、性風俗としての個室付き特殊浴場を「○○○風呂」(伏字はある国の名前)と呼んでいた時代がありましたが、○○○からの抗議によってメディアも風俗業界も一斉に「ソープランド」に呼称変更しました。先日、これと「イスラム国」は同じであるという主張の文章を見かけましたが、これは明らかに違います。「○○○風呂」の方は現地にそういう浴場は存在しないので如何なる意味でも誤っている呼称。一方の「イスラム国」の方は、既に論じた通り、ある意味では正しい名称なわけです。

支那」と「イスラム国」の比較も見かけました。「支那」は第2次大戦敗戦後の1946年に中華民国側から使用しないよう要請されています。戦勝国からの要請なので相当に強い圧力だったと思われますが、そういうことを抜きにしても、この地域に存在する国を示す限りにおいて、正式な国名の略称である「中国」を用いる方がより正確。つまり、「支那」に関してはより優れた代替案が存在したわけで、やはり「イスラム国」とは事情が違います。

イスラム国」に近いのは北朝鮮の事例ではないかと思います。日本は日韓基本条約により「朝鮮半島に存在する正式な国家は韓国のみ」とする立場ですが、1972年以降は「朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)」のように国家が名乗る“正式名称”を併記していました。しかし21世紀に入って、北朝鮮による拉致の存在が誰の目にも明らかになった頃から、メディアは単に「北朝鮮」とだけ呼ぶようになりました。国家の自称名を捨てたということで、メディアが正確性を犠牲にした事例と言えそうです。拉致問題への世論の高まりを無視できなかったということでしょう。


このたびNHKが日本語での「イスラム国」表記をやめたことによって、他の報道機関はどう動くか、しばらく注目していきたいと思います。


【追記(2015-02-16)】専門家による呼称問題への言及として、東京大学先端科学技術研究センターの池内恵准教授のブログ記事をリンクしておきます。大筋で主張に同意します。
「イスラーム国」の表記について
今回のNHKの呼称変更について「短期的に勘違いする人たちを予防するために仕方がないとは言えますが、しかし、低次元の解決策」と断じています。