もしも私がマスコミの報道関係者だったら「イスラム国」呼称をどう考えるか(または呼称を変えたがらない理由の推測)

いわゆる「イスラム国」呼称問題について、これまで何度かTwitterで断片的に書いてきましたが、自分の意見を整理する意味でここにまとめます。

まずは問題点の整理から。今年になって、中東の地で2人の日本人が殺害された事件を機に、過激派組織ISに関する報道が増えていますが、日本の多くのマスメディアはこの組織(本記事では原則としてこれ以降単にISと表記します)を現時点で「イスラム国」と表記しています。一方、「イスラム国」を用いるマスメディアに対し、この呼称の使用を批判する意見が目立っています(特にネットで)。日本の一部のネット民のみならず、ムスリムの団体やトルコの報道関係者等も声明を出しています。

メディアで用いる呼称を変更すべきと考える人々(本記事ではこれ以降「批判派」と呼びます)の論拠は概ね次のA.〜D.のようになるでしょう。
A. イスラム教徒(ムスリム)が不快な感情を覚える。
B. イスラム教のイメージが損なわれる。また、日本でのムスリム差別が助長される。
C. 実際には主権国家ではない過激派組織を「国」と呼ぶべきではない。
D. 現在の日本政府は「ISIL」と呼んでいるのだから合わせれば良いのではないか。
このうち、D.については、メディアが政府に合わせる必要は無いということで終了とします。C.は呼称に「国」が含まれることへの批判ですが、朝日新聞などは国でないことを示すために括弧を付けていると主張していますし、TVの報道番組の多くは「過激派組織イスラム国」「自称イスラム国」のように枕詞を付けて非国家であることを表現しているようで、メディア側からの見解は表明されていると言えます。

より厄介なのは「イスラム」に関わるA.とB.です。これについてメディア側から明確なコメントは出ていないようです。微妙な問題を含むだけに出しにくいのかも知れません(この件は後述します)。

ここからは、「もし私が民放テレビ局の報道に関わる立場だったら、これらの批判(特にA.とB.)をどう捉えるか」というテーマで考えていきます。さしあたり民放としましたが、NHKでも大手新聞社でも論旨は変わりません。そのために、日本民間放送連盟 放送基準(以下、単に「放送基準」と記す)を参照します。関連しそうな条文を幾つか引用すると

(2) 個人・団体の名誉を傷つけるような取り扱いはしない。
(32) ニュースは市民の知る権利へ奉仕するものであり、事実に基づいて報道し、公正でなければならない。
(39) 信教の自由および各宗派の立場を尊重し、他宗・他派を中傷、ひぼうする言動は取り扱わない。
(44) わかりやすく適正な言葉と文字を用いるように努める。
となるでしょうか(他にもあるかも知れませんが)。

報道関係者の立場としては、まずは(32)の「事実に基づいて報道」を重視したいところ。「イスラム国」はISの自称を英訳した「Islamic State」の日本語訳なので、事実に最も即した呼称です。その他の呼称として、日本や米国の政府が用いる「ISIL」、米国の一部メディアを中心によく知られている「ISIS」、フランス政府やアラブ諸国等が用いる「ダーイシュ」が有名ですが、この3つはいずれも「組織が過去に自称していたが現在は用いない名称」という意味で不正確なので、これらに言い換えると「事実に基づいて報道」が犠牲になります。単に「IS」と略すのは正確ですがあまりにも短いために紛らわしく、基準(44)に引っかかりそうです。実際、原則的に「IS」を用いる毎日新聞も、記事本文中の初登場時だけは「イスラム国」を併用しています。要するに、英語の略称を用いるだけだと、どうしても正確性 or わかりやすさが損なわれるのです。因みに、報道機関の話ではありませんが、「ISIL」を公式に用いる外務省の海外安全pageでさえも、表題では日本語の「イスラム国」を併記せざるを得ないのが現状です。

以上をふまえて、批判A.とB.への対応を考えてみます。「イスラム国」の他に正確かつ伝わりやすい呼称が存在するならすぐにでも変更すれば良い(寧ろ変更すべき)ですが、既に述べた通り代替名称は問題点を抱えています(テロ組織がもっと長い“正式名称”を名乗ってくれていればそれを略すだけで済んだのですが……)。ゆえに、全ての基準を満足させる方針はおそらく存在しません。あとは優先順位の問題です。

ここで疑問が1つ。B.が主張するようなイスラムへの中傷や差別が実際に起きていると仮定して、それは本当に呼称のせいでしょうか? ISがイスラム系過激派であることは昨年から周知の事実です。仮に別の呼称が使われていたとしても、「イスラム過激派の思想=イスラム教」的な誤解や偏見を持つ人が、今年の事件を引き金に差別的な言動を行うに至った可能性はあるでしょう。つまり、呼称のせいで中傷や差別が増えたか否か、客観的に検証するのは難しそうです。

では、批判A.はどうでしょうか。「人の嫌がることはするな」という主張は一見妥当性を感じるかも知れませんが、複数の利害が対立する場ではそうとは限りません。たとえば「電車内で乳幼児がうるさいのは迷惑だから同じ車両に乗せるな」という主張は通らないでしょう。公共交通機関は全ての人が乗れるのが原則だからです。件の主張への賛同が圧倒的多数派なら通用するかも知れませんが、現実はそうではありません。話を呼称問題に戻すと、A.の「不快だから」だけでは、基準(32)の「事実に基づいて報道」原則を覆すには力不足と思われます。日本社会ではムスリムは多数派ではありませんし、社会的影響力も大きくはありません。

批判A.やB.に対応しようとすると、どうしても利害対立や検証可能性の問題にぶつかってしまいそう。メディア側がコメントを出したがらない理由はこんなところではないかと推測します。


以上より、日本の多くのマスメディアが「イスラム国」にこだわる理由と思われるものをまとめてみます。
1.「イスラム国」は正確かつ日本人に最も伝わりやすい呼称であり、適切な代替案もあまり無い。
2.批判派の意見は「事実に基づいて報道」原則を覆すには客観性が足りない面がある。
3.そして何より、この呼称で傷付くとされる層が日本では少数派である。


ところで、先程「呼称のせいで差別が増えるか否かは検証困難」と書きましたが、だとしても差別悪化を予防する意味で、呼称を無難なものに変更しておくのは1つの見識でしょう。その場合、正確性をさほど損なわない代替案の1つとしては(既にネットで指摘されているところですが)「自称IS」が考えられます。ISは正確な略称ですし、「自称」を付けることで紛らわしさも軽減されます。実際には「イスラム」でも「国」でもないという意図も伝わりそうです。同趣旨の代替案としては「過激派IS」や「過激組織IS」も考えられます。実際、昨夜NHK今後ISの呼称を「過激派組織IS」とすることを発表しました。これ自体は無難かつ適切な決断だと思います。ただし、「過激派組織IS」単独で用いるわけではなく、記事本文内の初出現箇所では組織自称名の英訳である「イスラミックステート」を併記する方針になっています。これは私の感覚では「イスラム国」と書くのに等しいのですが、英語ならば「イスラム」色が薄れると感じる人は多いのでしょうか? いずれにしても、報道機関が正式名称を容易には外せないことが見て取れます。


とは言え、正確性と分かりやすさにこだわるマスメディアの報道関係者の方々(←皮肉ではありません)の気持ちはよく分かるので、私は呼称を変えないという理由ではメディアを批判しないことにしています。


この記事の本題は以上です。これ以降は蛇足気味です。批判派の意見の中で、過去のメディア呼称変更例と比較しているものを時々見かけます。過去に変更したんだから今回も変えればいいだろう、という趣旨でしょうが、その中には例えが不適切と感じられるものがあります。幾つかとりあげてみます。

かつて、性風俗としての個室付き特殊浴場を「○○○風呂」(伏字はある国の名前)と呼んでいた時代がありましたが、○○○からの抗議によってメディアも風俗業界も一斉に「ソープランド」に呼称変更しました。先日、これと「イスラム国」は同じであるという主張の文章を見かけましたが、これは明らかに違います。「○○○風呂」の方は現地にそういう浴場は存在しないので如何なる意味でも誤っている呼称。一方の「イスラム国」の方は、既に論じた通り、ある意味では正しい名称なわけです。

支那」と「イスラム国」の比較も見かけました。「支那」は第2次大戦敗戦後の1946年に中華民国側から使用しないよう要請されています。戦勝国からの要請なので相当に強い圧力だったと思われますが、そういうことを抜きにしても、この地域に存在する国を示す限りにおいて、正式な国名の略称である「中国」を用いる方がより正確。つまり、「支那」に関してはより優れた代替案が存在したわけで、やはり「イスラム国」とは事情が違います。

イスラム国」に近いのは北朝鮮の事例ではないかと思います。日本は日韓基本条約により「朝鮮半島に存在する正式な国家は韓国のみ」とする立場ですが、1972年以降は「朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)」のように国家が名乗る“正式名称”を併記していました。しかし21世紀に入って、北朝鮮による拉致の存在が誰の目にも明らかになった頃から、メディアは単に「北朝鮮」とだけ呼ぶようになりました。国家の自称名を捨てたということで、メディアが正確性を犠牲にした事例と言えそうです。拉致問題への世論の高まりを無視できなかったということでしょう。


このたびNHKが日本語での「イスラム国」表記をやめたことによって、他の報道機関はどう動くか、しばらく注目していきたいと思います。


【追記(2015-02-16)】専門家による呼称問題への言及として、東京大学先端科学技術研究センターの池内恵准教授のブログ記事をリンクしておきます。大筋で主張に同意します。
「イスラーム国」の表記について
今回のNHKの呼称変更について「短期的に勘違いする人たちを予防するために仕方がないとは言えますが、しかし、低次元の解決策」と断じています。

下村文科相発言の問題点(“民度”は使うべきではない)

昨日に引き続いて政治家の問題発言ネタ。まずはニュースソースから。

下村文科相「フェアな形で試合を」(NHK)

下村文部科学大臣は、閣議のあとの記者会見で、サッカーの日本対韓国の試合で、韓国のサポーターたちが「歴史を忘れた民族に未来はない」と書かれた横断幕を掲げたことについて、「民度が問われることだと思うし、フェアな形で試合ができるよう今後に期待したい」と述べました。

前提として、次の3つをおさえておきたい。

  • 歴史認識に関わる横断幕は、応援時の政治的な主張を禁じたFIFAの規定に違反する可能性が濃厚であること。
  • 民度”とは「特定地域に住む人々の知的水準、教育水準、文化水準、行動様式などの成熟度の程度」で、具体的に何の水準か曖昧なまま使われること。
  • すなわち、ある国全体に“民度”という用語を用いた場合、その国民全体を想定していること。

すると、以下の理由により、私には下村氏の発言が相当にまずいと思えるのです。

  1. まず、これはさほど大したことではありませんが、スポーツの試合でのトラブルに閣僚が口を出すのはどうなの? FIFA規定違反の件で韓国側に抗議したりFIFAに訴えるのは当然ですが、それは日本サッカー協会(JFA)あたりの役目だと思われます。ちなみにJFAは今は公益財団法人で、文科省からは完全に独立しています。
  2. 最も気になるのは、韓国の民衆全体を評価するかのような“民度”という用語を用いていること。韓国の国民性そのものに日本人とは相容れない要素が多々あることは事実だと思いますが*1、サッカーの応援の話をしているのですから、まずは韓国のサッカー機構やサポーターに限定した表現を用いるのが政治家としては筋でしょう。政治家が他国の国民全体を見下すかのような発言をした例は、他には余り思い出せません*2
  3. 更に“民度”という言葉が指す範囲に具体性が無いことが気になります。「民度が問われる」を別の言葉遣いに言い換えると「具体的には何が問題か言わないが、国民性がおかしいのではないか」となりそうです。政府の閣僚が使うのに相応しい言葉とは思えません。

つまり、民度を低く評価する表現は、根拠を明示しない他者批判となってしまうのです。だから私自身は何かを主張する際に“民度”は絶対に使わないことにしています。他者を批判するなら、そう思う根拠を詳しく!


そんなわけで、あくまで個人的な意見ですが、最近の政治家の発言の中では麻生氏よりも下村氏の“民度”発言の方がむしろ問題だと感じているのです*3。幸い韓国政府筋からの反発は「当局者論評」程度の低いレベルに留まってはいますが*4

*1:この件は別の機会にぜひ論じたい

*2:ネット上での下村氏擁護の主張の中で「民度が低い」ではなく「民度が問われる」だから構わない、というものを見かけましたが、詭弁としか思えません。低評価しているのは明らか

*3:ユダヤ関連をはじめとする国際社会では、麻生氏のが飛びぬけてヤバイのですが、私は日本人ということでそれは一旦措いておきます

*4:サッカー横断幕に下村文科相「民度問われる」 韓国は無礼と批判スポニチ

 麻生氏発言で擁護できない部分

先日7/29の麻生副総理兼財務相の発言問題については、麻生氏自身は既にナチスを例示した箇所を撤回しているので、今となってはナチス関連で麻生氏を批判するのは余り適切ではないでしょう*1。更に、憲法改正靖国問題に関わる発言全体の趣旨に、私自身は基本的に共感しております*2。ですから、これから書く文章は麻生氏をどうこう言うためのものではなく、主にネットにおける麻生氏擁護に対する疑問です。


まずは、麻生氏発言のソースへのリンクを貼っておきましょう。
麻生副総理の憲法改正めぐる発言の詳細(朝日)
麻生副総理「ナチス憲法発言」撤回に寄せたコメント全文


麻生氏による撤回後も、麻生氏を擁護する意見はネット上に多数見受けられます。その中で「確かに言葉の選び方は不適切だったかも知れないが、発言全体の論旨はナチスを賛美するものではない」や「麻生氏がワイマール憲法に関する歴史的事実を誤認していたため主旨が歪んで伝わっただけである」のようなものが目立ちました。また、単なるネット民ではありませんが、橋下徹氏による「あれはブラックジョーク」という切り口の擁護もありました。また、「発言の一部を切り取ってナチスを賛美するかのように歪曲報道したマスコミが悪い」という角度から麻生氏を正当化する意見もあります。


これらの擁護論は、中には間違っていないと思えるものもありますが、擁護としては成立していません。何故か。そもそも麻生氏自身が既に「私の真意と異なり誤解を招いた」と言っています。にも拘らず発言撤回に到ったのは、ひとえに“発言全体の趣旨とは無関係に、一部を切り取ればナチス賛美と解釈可能な発言*3が問題視されたから”に他ならないでしょう。ナチスに関しては、ほんの僅かに持ち上げることすら許さない空気が国際社会(とりわけ欧州やユダヤ関連)に存在することは常識です。勿論ジョークですらアウトです。そんなことで責められるのは不条理だと思う向きもあるかも知れませんが、先の大戦における敗戦国で人種差別や大量殺戮を行ったとされる勢力が強硬に全否定されてしまうのは現時点では致し方ないことです。麻生氏がこのことを知らなかったはずはありません。国際社会と接点を持つ政治家がナチスを不用意に持ち出したことは決定的なミスであり、擁護の余地はありません。仮にマスコミがナチスに言及せずに報じたとしても、スピーチの録音は残っているわけで、何らかの経路で明るみに出れば同じ結果に終わったことでしょう。


最初に述べたとおり、この発言全体の趣旨について、私自身は特に問題視しません。一方で、麻生氏は政治家をやる資格が無いとまで主張する人もいます。ドイツ辺りではそうなるでしょうが、ナチスへの拒否感が欧米に比べてだいぶ少ない日本国内では話は違ってきます。定期的に軽率な発言をする麻生氏は好きになれない政治家の1人ですが、今回の件で辞任・辞職する必要はないように私には感じられます。このように、麻生氏の発言全体の趣旨に賛同するか否かは、もちろん人それぞれの考え方があって良いわけですが、残念ながらどうしても擁護できない部分は厳然と存在するのです。

*1:もちろんドイツ辺りでは撤回しようが謝罪しようがアウトになる可能性はあるわけですが……

*2:現在の自民党改憲草案の内容には賛同できない面が多々ありますが、それは別の話。

*3:具体的には何と言っても「あの手口学んだらどうかね」の箇所でしょう。「あの手口を反面教師にしたらどうか」ならば無問題だったかも知れません。講演では笑いを取れなかったでしょうが

 閣僚や議員の靖国参拝は憲法20条に基づいてのみ擁護されるべきである

昨日の参院予算委員会での安倍首相の答弁から引用します。

国のために尊い命を落とした英霊に対して尊崇の念を表するのは当たり前だ。閣僚はどんな脅かしにも屈しない。その自由は確保していく。

日本国憲法第20条によると、信教の自由は何人に対しても保証されています。その意味で、議員や閣僚(首相も含む)の参拝の自由は当然確保されねばなりません。政治的判断で首相周辺が参拝を回避するという行き方はあっても良いと思いますが、何らかの外圧が原因で参拝したい個人が参拝できないことは決してあってはなりません。


その一方で、「英霊に対して尊崇の念を表するのは当たり前」に違和感を覚えます。かつての小泉元首相や最近の菅官房長官の言葉を借りるならば、英霊を尊崇するか否かも「心の問題」であり、決して「当たり前」ではないと思います。

また、私自身は先の大戦における英霊に尊崇の念を抱いていますが、慰霊の手段が靖国神社である必要は感じません。もし上記答弁における「当たり前」に「閣僚は靖国を参拝するのが当たり前」という意図が少しでも含まれるとすれば、憲法第20条の「いかなる宗教団体も、国から特権を受け(てはならない)」に照らしてグレーであると感じられます。

当然のことですが、靖国神社は一宗教団体に過ぎません。いわゆるA級戦犯の合祀が一部の人々に問題視されていますが、靖国神社そのものにも信教の自由があるわけですから合祀それ自体は全く問題無いでしょう*1。しかし、国もしくは閣僚が靖国神社を特別扱いするならば、これは憲法20条に違反する可能性が高くなります。個人の思いで参拝するのは自由ですが、靖国を政治的に利用する意図があるとすれば、これも20条に照らしてグレーです。


現在の安倍政権の高支持率は、主に経済政策への期待に支えられていると考えられます。その一方で、主に改憲靖国等に関連して「愛国」を強調するような発言や動きが時々垣間見えるのは気になるところです。前から何度も書いていることですが、国を愛する心は人それぞれ。下手に愛国心や精神論を強調すると足元を掬われかねません。

*1:ただし合祀に到る経緯で当時の厚生省が靖国神社に事務的な協力をしたことは憲法違反であったと考えますが、これはひとまず別問題とします

第2次安倍政権への現時点評価(Twまとめ)

最近、twitterで安倍政権の諸政策に対する所感を時々ツイートしているので、こちらにざっと並べて、一言コメントをつけておきます。経済政策関連が多いかな。

衆院選前の冷泉彰彦氏の記事へのリンク。冷泉氏の指摘の通り、インフレターゲット政策にしろ公共事業強化にしろ、マクロ経済的にうまくいくか否かは様々な外部要因に依存するので、ギャンブル性があると言えばあります。とは言え、景気対策は急務なので「とりあえずやってみる」という思い切りの良さがあっても良いかとは思います。

インフレターゲットについては、最近も関連ツイートを投稿しました。

FINANCIAL TIMESの記事へのリンク。確かにインフレは貯蓄の価値を目減りさせますし、貯蓄額が多いのは富を蓄えた高齢者です。安倍政権の経済政策が所得分配のあり方にも大きな影響を与えるかも知れないという指摘にはハッとさせられます。

女性の就労を促進してGDPを上げよう、という主旨の記事へのリンク。ツイートでは私の所感を書かなかったのでここに書きます。確かに一理ある主張ですが、雇用問題にも関わることなので、記事中にも指摘がある「同一労働同一賃金政策」や、あるいはhttp://d.hatena.ne.jp/dslender/20130310/p1で言及した解雇規制緩和問題とも合わせて議論されるべき課題であり、決して簡単ではないでしょう。


ところで、安倍首相は先日TPP交渉参加を表明しました。TPPについては先日以下のような連続Tweetをしました。朝日のスティグリッツへのインタビュー記事を読んで、どうしても書きたくなったのです。

以上の9連続ツイートは、スティグリッツ発言の“都合の良い”部分だけを強調して見出しを付ける朝日新聞批判でもあり、「TPPは全国民のためにならない」的な脅迫まがいの極論を用いる一部のTPP反対派への苦言でもあります。


さて、主に外交に関するツイートは次の2つ。

中韓との関係を含む外交については、第1次安倍政権の際も無難にこなしていた印象があるので、私はさほど心配していません。


ところで、少し気になるのは以下の問題。

私にとって安倍さんは嫌いなタイプの人ではありませんが、情緒的ナショナリズム的な発言や側近の存在は気になってしまいます。憲法改正のためには有権者の半数の同意が必要なので、「伝統」「郷土愛」「愛国心」のような非実用的かつ主観的なことに拘るのは得策ではありません。まあ、改憲が頓挫するのは大した問題ではありませんが(日本は現行憲法でもそこそこうまくやっていると思うので)、少子化問題など国全体の経済に関わる政策にまで支障をきたすようでは困ります。


最後にちょっとした補足。現在の経済指標は一見好調に推移しているようにも見えますが、これは安倍政権の政策への期待感の反映が殆どであり、「アベノミクス」(あまり美学的に好きになれない言葉ですが)の具体的成果が現れるとすれば、もう少し先だと思われます。政権発足からまだ僅か3ヶ月。引き続き安倍政権には注目していきます(特に経済関連で)。

解雇規制緩和とドイツ失業率について

私の経済観はどちらかというと市場への信頼が強い方だと思っていますが、労働市場については「市場の失敗」が起こりやすいので市場原理の妄信は危険だと考えています。

先日、Twitterに以下の呟きを書き込みました。

これを書く準備としてWebで「解雇規制緩和」で検索してザッと目を通したわけですが、その際Wikipediaの「正規社員の解雇規制緩和論」のドイツの項目に目が留まりました。

ドイツは一度採用したら解雇はほとんど無理と言われるほど厳しかったが、法律を改め、解雇をしやすくした。また、失業手当の給付期間を短縮する一方、失業手当を社会扶助の同額まで引き下げた。短期的には失業者が500万人を超えたが、長期的には、雇用の流動性が高まり、逆に労働市場が拡大して失業者は減った

Wikipediaの記述を素直に読めば、ドイツでは解雇規制緩和がマクロ経済的に功を奏したように見えます。はたして本当にそうなのか? さらに、仮に今の日本で解雇規制緩和に踏み切った場合、長期的に失業率を増やすことなく人材移転を実現できるのか? こんな疑問を感じたので少々調べて考えてみた結果、日本は解雇規制緩和に慎重であるべし、との意を強くした次第です。以下、ここでは簡潔を旨として端的に書く予定ですので、より詳細な知識をお望みの方は、各自で参考pageや文献に当たってください。

短期的な痛みを甘受できる?

まず、件のwikipediaでも参考文献に挙げられている記事「ドイツ経済の勝因は 左派政権の「小泉改革」にあり 」(2011.7)から長めの引用。

 「シュレーダー時代の改革があったから、ユーロ安の追い風をフルに享受できた」とドイツのプライベートバンクの友人は語る。シュレーダー前首相は03年3月に「アジェンダ2010」と名付けた改革プログラムを発表した。当時、ドイツは深刻な成長の壁にぶつかり不景気に喘いでいたが、グローバル化する経済の中で、再び成長に乗せるために大改革を打ち出したのだ。

 改革に当たって、シュレーダー首相は大幅な減税を前倒しして実施したが、世の中では「痛み」が先に現れた。失業率が上昇したのだ。痛みを伴う改革が断行できたのはシュレーダードイツ社会民主党SPD)政権の支持母体が労働組合だったためだ。当初は「3年で失業者を半減させる」として組合の支持を得ていたが、改革実施後の痛みに耐えかねて組合の支持率は急低下、デモも頻発した。

 失業者が急増したのは、改革によって余剰人員の大幅な削減が容易になった企業が、相次いでリストラを実施したからだ。結果、05年には失業者数が500万人を突破。失業率は12.7%にまで高まった。国民の不満は頂点に達し、遂にシュレーダー政権は退陣に追い込まれた。グローバル化の中で勝ち残るためには硬直化した労働市場を崩し、新規事業の参入を容易にし、若者の雇用を創造しなければならないというのが、この労働市場大改革の狙いだった。つまり「雇用を守る」という目先の対策ではなく、将来を見据えて「雇用を創る」ことを狙ったわけだ。

 その後、EU拡大の恩恵もあり、ドイツは世界一の輸出大国となった。また、ユーロ安が追い風となり、企業の収益率が劇的に改善することになった。図らずもシュレーダー前首相がターゲットとした10年には、失業率は7%にまで低下。失業者数は300万人割れと、90年代初めの水準にまで下がった。GDP成長率もプラス3.5%と、再び成長を取り戻したのである。

一般に、解雇されてすぐに職に就くのは簡単なことではありません。やはり短期的な失業率上昇は不可避(よほど上手く事が進まない限り)と思われます*1。ドイツの場合は少なくとも3年間、失業率上昇の「痛み」に見舞われたことになります。いかに短期的な痛みとは言え、日本社会が3年間耐えられるかどうか、些か疑問に思えてきます。


元々の失業率がドイツと日本ではだいぶ違う

次に、両国の失業率の推移について、以下のWebページを参照してみます。
図録▽失業率の推移(日本と主要国)本川裕氏のサイトより)
これによると、ドイツが「アジェンダ2010」*2を発表した2003年のドイツの標準化失業率は9.1%。一方、日本の最新(2013年1月)の失業率は4.2%。出発点がだいぶ異なるため、緩和実行後の中長期的推移も違ってくるのではないか、という懸念が生じます。なお、日本の失業率は他の主要国に比べ概ね低めに推移していることも分かります。高度成長期に比べれば上昇したとは言え、これは大したものです*3

ハルツ4法が存在したことも無視できない?

さて、上でリンクした図録▽失業率の推移(日本と主要国)には、次の記述もあります。

2002〜06年にハルツ4法が制定され、失業者の起業と再雇用に対する支援策が強化されるとともに、従来の雇用保険による失業手当とは別に、希望する職ではない低賃金・不安定雇用であっても働き先を指定されたら断らないで就業するという条件で最低限の生活を確保する手当(月5万円程度)が政府・自治体から直接受けられ、自ら希望する職を目指して職業訓練する余裕を与えるという仕組みが整備された。これにより若者や外国人など従来失業を選択していた層が職に就き、このため失業率が低下したと見られる。労働政策として生活保護が制度化されたようなものなのでワーキングプアを温存するという批判もある。

このハルツ改革は「アジェンダ2010」発表に先駆けて2002年から始まっていますが、解雇規制緩和とは別の方向からの政策と呼べるでしょう。2006年以降ドイツの失業率は低下傾向にあります。さて、解雇規制緩和政策とハルツ4法による公的扶助政策のどちらがより失業率低下に貢献したのか? それ以外の要素の貢献もあったのかも知れません。評価は簡単ではなさそうです。


当エントリで私がいちばん強調したいことは、当時のドイツと現在の日本では状況がだいぶ違うぞ、ということです。だから、ドイツでの解雇規制緩和の経緯をそのまま日本に当てはめるのは些か乱暴でしょう。一方、ドイツで失業率低下が実現したことも事実なので、「労働者の生活を脅かすな」「企業の利権は許さない」的な情緒的理由だけで解雇規制緩和案を切り捨てるのも如何なものかと思います。現在、安倍首相の元で解雇規制緩和に関する議論が行われているようです。議論は大いに結構だと思います。単に一部企業の利益に囚われることなく、マクロ経済情勢を踏まえた冷静な議論と政策判断を望みます。

最後になりますが、2000年代のドイツ経済を概観した資料としては、2011年12月に発表された内閣府「世界経済の潮流」の1.国ごとにばらついているヨーロッパ経済 - 内閣府が詳細かつわかりやすいかも知れません。

*1:これを補償するため再就職支援金がセットで提案されてはいますが。

*2:ドイツ語風読みなら「アゲンダ2010」

*3:ちなみに小泉首相在任期間は失業率は低下傾向でした

活断層問題(安全神話なんてあったの?)

原発問題については11月30日に長文記事を書いていますが、補足したいことがあります。

福島第一原発事故後、「原発安全神話が崩壊した」という論法を見掛けることが増えました。私は以前からこの論法に大いなる疑問を抱いています。「安全神話なんてあったの?」という疑問です。私自身は、ずっと前から原発は一旦事故が起きれば大変なことになると知っていましたし、事故の可能性は低いものの決してゼロではないと考えていましたし、だからこそ原発は辺鄙な場所にばかり建てられると思っていました*1。リスクを承知で、エネルギー政策上のリターンがあるから原発の存在を容認していたわけです。そして、一部の反原発主義者を除いて、皆が私と似たような考え方だと思っていました。原発が絶対的に安全だと無邪気に信じていた人なんて居るのでしょうか?……うーん、やはり居るのか?

福島第一原発事故以前と以後とで、基本的に原発そのもののリスクは些かも変わっていないはず。事故を教訓に安全対策をより強化することは重要ですが、そこさえ満たしていれば、あとは政治次第です。再稼動にリスク*2が存在することは間違いない。一方、再稼動しないことによってエネルギー価格の負担増などの損失が起こるかも知れない。メリットデメリットを総合的に勘案して、政治的に判断すれば良いと思うのです。

最近、原子力規制委員会活断層判定により、東北電力東通原発の再稼働が困難になっていることが報じられました。これについては、活断層の定義拡大によって半ば無理やり原発を停めようとしているようにも見えます。まあ、敷地内活断層が実際に活動して地震が起こったら大ダメージに見舞われるのは確実でしょう。しかし、その地震が今後いつ起こるのか、誰にも予知できません。数年後か、数十年後か、数百年後か……もし数百年後以降ならば、そのときには現在の方式の原発は既に過去のものである可能性が高いわけです。視点を変えると、敷地付近に活断層が無くても、東日本大震災を超える規模の地震津波が起きて事故に至る可能性もゼロではありません。以上より、原発活断層の上にあるか否かで再稼働の是非を判断する考え方は、私にはナンセンスとしか思えないのです。

再稼動の可否を含め、今後原発をどうするかという問題についての最終決定は、規制委員会の学者などではなく政治が行うべきです。再稼動のリスク、再稼動しない場合の諸方面への経済的負担、火力を含む代替エネルギー移行への見通し等、様々な要素を考慮し、国民に十分説明した上で決定していくことこそが政治の役割だと思います。

*1:いま思えばこの認識は若干不十分だったかも。原発誘致は、他にこれと言った産業がない自治体にとっての安定財源の役割も果たしていました。これについては通常ブログの下北半島論で触れています

*2:確率的にはごくごく小さなリスクですが